日々のお勤めお疲れ様です。アカツッキーです。
前回の記事から約1ヶ月。現在制作中のVOICEROID講座動画完成まで休む予定でしたが、今日は書こうかなと。あと予約投稿の試運転もしてみたかったので。
いつものような前置きはありません。本題。
今から8年前、2011年3月11日14時46分18秒。日本の三陸沖の太平洋(宮城県仙台市の東方70km)を震源とするMw9.0・最大震度7を記録する地震が発生。世界中に衝撃が走った、あの東日本大震災である。
気象庁による正式名称は「平成23年東北地方太平洋沖地震」。死傷者は2万人を超え、行方不明者全員の発見には至っていない。それに加え、長期に渡る避難生活による過度のストレスから自殺を含む戦争関連死も後を絶たない。原発反対運動は大規模デモなどがそこかしこで行なわれていた一時期に比べて沈静化したものの、原子力(放射能)による風評被害も根強く残っているのが現状である。
復興庁の設置期限とか、放射能の蓄積がどーのとか、東京電力の対応がどーしたとか、そういう政治的・医学的・社会的な話は専門家や意識が高い人達にお任せするとして、中途半端な知識しかない一般人の私は、結局の所ひとり語りをするしかない。隙きあらばなんとやら。
それはそれとして、今年も検索大手(日本限定)であるYahooが3.11検索募金を行なっているので、普段はGoogle使っている人も今日は一度Yahooを起動して3.11と検索して欲しい。Yahooで3.11と入力してEnterを押すだけで10円の募金になる。10秒で終わるのでぜひ。
そんでもって自分語り。高尚な話はなにもないし、むしろ「ダメ人間乙」くらいの話なので、時間を持て余してどうしようもない人以外はオススメしません。
ということで東日本大震災に関連して一つ。
私は平成とともに生まれ、平成の時代とともに生きてきた。平成に入ると、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震ならびに中越沖地震、鳥取西部地震など多くの震災に見舞われた。最近では熊本や北海道の地震が記憶に新しい。
他にも三宅島や有珠山、御嶽山では噴火が起きるし、小笠原諸島や茨城県、中国地方などは豪雨災害に見舞われた。
天災に限らず、どこぞの宗教団体が猛毒な化学物質をばらまいたり、中東で戦争が起きたりもした。
だが幸いなことに、私はそれらに強い影響を受けることがなかった。すべてはテレビ画面の向こう側の出来事で「大変ねー」とスイッチ一つで切り替わるような、ある種のフィクションのようだった。
そんな私が人生で初めて天災と、それに関連する混乱などを経験したのが東日本大震災だった。
地震発生当時、早朝からの仕事を終えて自宅にいた。昼食の支度をし、特に意味もなくテレビをつけていた。「あ、地震か」と揺れに気づいたが、それほど気にはしなかった。しかし、間を置かずして、大きな横揺れとなった。それも長い。揺れが収まるより早く、テレビが消えた。PCの電源も落ちた。
揺れが収まってすぐ、当時は当たり前のように備わっていた携帯電話のワンセグ機能でニュースを見た。私の地域は震度4。東北地方でとても大きな地震があったとの報道だった。それでも私は、まだ電気の中継地点のどこかがやられたのだろう程度にしか思っていなかった。
それから夕方になり母が帰宅。充電ができないため、この頃を最後にワンセグも控えた。この時の報道では、死傷者・行方不明者は2~300人程度だった。
実際に電気が復旧したのが何時かは就寝していて分からないが、早朝4時頃にふと目が覚めてテレビをつけると電源が入った。どのチャンネルも報道番組だった。そこでは、死者行方不明者が最後に見たときの10倍以上に膨れ上がっていた。
私はその時、初めて理解した。今は「異常事態」なのだと。
それからは目まぐるしかった。電気が完全に復旧されたわけではなく、近所スーパーなどは軒並みシャッターを下ろしていたし、コンビニはレジスターが使えず、手打ちで対応していたために長蛇の列。暴動や罵詈雑言が飛び交うなどはなかったが、会計をせずに出ていく人間を何人も見た。
当時スーパー勤務だった私は、娘が止めるのも聞かず「まだ食べれるから!」と、普段なら見向きもしないだろう、ゴミ箱に捨てられたキャベツの外葉を根こそぎ拾う母親の姿が今でもふとした時に蘇る。
電力や物流の影響はあっても、地割れも液状化も放射能も津波も、甚大と呼べるほどの被害を受けなかった私の地元ですらも、人々は生きるのに必死になっていた。きっと、本当の「現場」は、私の想像力なんかでは計り知れないほどの情景が広がっていたのだろう。
あれから8年。
未だに避難区域に指定されている地域がある。除染が進まない地域がある。戻れても、震災前の100分の1や1000分の1しか人口がない町がある。それでもきっと、誰もいなくなった、光を失った夜の町に、一つまた一つと光が灯った光景は、万感の思いだったに違いない。
この時期になると、マスコミはこぞって震災特集をする。でも、まるでそういう取り決めがあるかのように口をそろえて言うのだ。
「あの日を忘れてはならない」
私は、忘れてもいいと思う。悲しみと苦しみにいつまでも苛まれ続けるくらいなら、いっそ忘れてしまったほうが良いと私は思う。
でも、この出来事を知り、生かす動きは続けなければいけない。例えば現在の建造物の耐震強度基準は阪神・淡路大震災や新潟県中越地震を経て改正された。でも、そんなこと(基準が変わった要因)を覚えている人はそう多くはない。私はそれでいいと思う。悲しみを悲しみのまま受け継ぐ必要はないと思う。形を変えて、生かされた結果、受け継がれていく。それが、一つの理想の形ではないだろうか。
「復興はまだまだ」
これも、マスコミが好んで使う言葉だ。しかし現地の人々は、毎日前を向いて生きているという。普段は見向きもしないのに、この時期だけ集まって、悲劇的な演出を施し、前に進もうと頑張る人々の努力や輝きをほとんど伝えようとしないマスコミこそ、あの時から時間が止まってしまっているのではないだろうか。
私も、偉そうなことは言えた口ではない。この8年間、東北を尋ねる機会はいくらでもあった。でも、私は昨年ようやく、宮城と秋田を訪れたに過ぎない。それも、ただの観光だ。震災など頭の片隅に追いやって。
他にもなにか出来ることがあったと思う。8年という歳月を、私は思いを馳せるばかりで何もしてこなかった。東北応援キャラクターの東北ずん子を始めとするご当地キャラクターの活動をネットを介して覗き見ていたに過ぎない。
その間に、実際に現地を何度も訪れ、自らの足で歩き、本をしたためた人がいる。
わたしにとって〈そこ〉は、フィクションだった。
— 今田ずんばあらずφ3/21テキレボ (@johgasaki) March 10, 2019
被災地を旅する青春小説
『イリエの情景~被災地さんぽめぐり~』
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CV大倉有貴pic.twitter.com/Uz9s9rvaPo
震災後に東京から戻り、地元の学生たちと一緒に地酒づくりに奔走される方もいる。
✨福島大学の純米吟醸✨
— 福島市唯一の蔵元 金水晶酒造店 (@kinsuisho29) March 10, 2019
福島の田んぼを守ろうと、福大の学生さんが酒米から育て金水晶酒造店と醸造した「福島大学の純米吟醸」が発売になりました。福大生協、いちい各店、JA直売所ここら 福島県観光物産館などで販売。
✨通販は https://t.co/qFdZsgTroG pic.twitter.com/BIQfL9jkj3
他にも探せばいくつもある。東北の地で、遠く離れた地で。それぞれの形で頑張る人がいる。
今の私は偽善者だ。それも「やらない善よりやる偽善」と呼ばれるようなタイプではない。何もしていないのに善を語る、正真正銘の偽善者なのだ。
平成が終わる。私も、夏をすぎれば十の桁の数字が変わる。世界はそんなこと気にせずに、9年目、10年目、その先へと続いていく。
まずは何もやらない偽善者から、やる偽善者になれるように。その後は……分かりません。
ただ、私は覚えていようと思う。悲しみも、苦しみも、混乱も、必死の形相も、あの時の津波も、必死に人々を守ろうとした人たちがいたことも、失った場所から新たに始めようと奮闘する人たちがいることを。
無関心こそ、最大の過ちだと思うから。
黙祷。